物語

カプチーノ、僕と彼女の場合

スターバックスコーヒーのカプチーノが好きで、いつもトールサイズを頼んで通りに面したカウンターの高い椅子に座っているのが彼女だった。耳にはウォークマンのイヤホンをさし、手元には文庫本が開かれている。白いプラスチックのカップに入ったカプチーノ…

「いやな風ね」と彼女は言った。たしかにいやな風だった。乾燥している割には妙に肌にからみついてきたし、第一風向きがまったくはっきりしなかった。風はあらゆる方向から吹いていた。右手の甲に空気が当たるのを感じたかと思うと、急に前髪が吹き上げられ…

図書館

門番は下を向き、僕は階段をのぼった。 二階の閲覧室に入ると、僕はいつも懐かしい気分になる。階段の最後の一段を上りきるたびに、ずっと小さなころからここをよく知っているような感じがした。いつもそうだ。初めてここに来たときからそうだった。古い本の…

バッティングセンターの女

彼女はバッティング・センターで受付をしている。ビルの谷間にさえない緑色のネットを張った小さなバッティング・センターだ。今どき受付嬢のいるバッティング・センターなんて佐渡島のトキより希少なんじゃないかと思う。ネットは所々破れかけているし、客…

椋鳥法

最初に椋鳥のことを言い出したのはヤマモトさんだった。たぶん一万羽くらい集めれば何とかなるわよと彼女は言った。もちろん僕は反対したのだけれど、彼女は頑として譲らなかった。口の中でぶつぶつと何かを呟きながら黒板によくわからない数式とやけにくね…

荒野

二十四の春に僕は羅針盤を失った。それは唯一無二のものというわけではなかったし、なくなればすぐに僕の人生が変わってしまうという性格のものでもなかった。にも関わらず、それを失うことによって僕は少なからず混乱し、同じ場所をぐるぐると歩き回ってい…

ウィンダミアの小道

ボウネスは美しい街だった。僕はメインストリートになっている緩やかにカーブした坂道を何度も行き来し、そのたびに横道に入り込みさらに枝分かれしている何本もの小道を見つけ足を踏み入れた。小道はたいてい誰かの家の裏庭に続いていたり、行き止まりにな…

020811

暗闇の中で目をさましたとき彼女は泣いていた。 僕はまだ覚醒しきってはいなかったし波の音は規則正しく続いていたから、押し殺したようなしゃくりあげる音がなければ彼女が泣いていることにはたぶん気づかなかった。 僕は目を開けたまま暗闇の中でじっとし…

ジョンとポール

ストロベリー・フィールズの真ん中には小さな食堂がある、と彼は言う。だってストロベリー・フィールズには誰も住んでないんだろう、と僕が問うと、だってペニー・レインにだって床屋があるんだろう、と彼は問い返す。もちろんペニー・レインには床屋がある…

彼のレモンドロップ

右のポケットにはレモンドロップが入っていて、左のポケットには薄い本が1冊入っている。いつもの彼のスタイルだった。人に会うと、まずレモンドロップを勧める。それから自分でもひとつ取り出して口に放り込む。挨拶みたいなものだ。「やあ、気分はどうだ…

草原、みぞれ、僕

とても強い風が吹いていた。まるまると太った雌牛がちょっと気を抜いただけでどこかに飛ばされそうになってしまうくらい強い風だ。風にはときどきみぞれが混じった。小さくて、だけど石ころみたいに硬くて、そして恐ろしく冷たい。雲は信じられないような速…

010609

壁を這う緑を眺めながら彼女は「いやな夢を見るの」と言った。飛行機が落ちるの。私は地上でそれを見ている。飛行機は暗い空からこっちに向かってくる。どこにも逃げ場がない。あなたと二人で手をつないだままうつぶせになってやりすごそうとしたはずなのに…

メリーゴーランド

デパートの屋上に残っているのは、今では10円玉でがたがたと動くダンボと錆びつきかけた数台のゴーカート、そして小さなメリーゴーランドだけだった。冬の日暮れは早く、メリーゴーランドは隣のビルの長く延びた影にすっぽりと覆われている。さっき最後の客…

バートランド・ラッセル的な結婚

「もちろん1327年にはバートランド・ラッセルは存在していなかった。彼が生まれるのはもっとずっと後のことだ。にもかかわらず、1327年のイタリアはバートランド・ラッセル的なものに満ち溢れた年だった。トスカナ地方の修道士たちの間では数字を使ったパズ…

マリンバ男4

噂を聞いたのは岩ツバメの巣を取りに行く途中だった。僕を見つけたタンバリン男が寄ってきて教えてくれた。「マリンバ男のこと、聞いたかい?」と彼は言った。僕は黙って首を振った。「ここを出て行くらしいんだ」タンバリン男はいつもとまったく同じ調子で…

君に頼みがあるんだ

君に頼みがあるんだ。大したことじゃない。リンゴをひとつ食べて欲しい。赤くてキュッとひきしまってるやつを。青いやつはだめだぜ。赤くないリンゴはリンゴじゃない。そうだな、きれいに晴れてる日にして欲しい。木の枝にとまった小鳥がさえずってくれてれ…

彼女の太った叔父さん

彼女にはものすごく太った叔父さんがいたわけだけれど、彼女はその叔父さんのことを本当に愛していた。僕に叔父さんの話をするときの彼女の顔はとてもうれしそうに輝く。それは僕がちょっとやきもちを焼いてしまうほどだ。わたしの叔父さんはね、と彼女は話…

マリンバ男3

「かわいそうなフルート男」と僕が呟くと、マリンバ男はマリンバを叩きながら「かわいそうなフルート男」と唄った。そして最後の鍵盤をポロンと叩きながら涙を一粒こぼした。僕がハンカチを差し出すと、マリンバ男は默って首を振り、歩きだした。彼はいつだ…

スーパーマーケットの夜更け

夜中のスーパーマーケットにはいろんな音が漂っている。ジーというのはたぶん非常口を示す緑色のランプが切れかかっている音で、ブーンというのは冷蔵庫のモーターが回っている音だ。さらに耳を澄ますと壁の中を伝わる水の流れるような音が聞こえる。ときお…

マリンバ男2

周知のようにマリンバ男はマリンバを引っ張りながら歩いている。マリンバの足には小さな車輪がついていて、ガラガラと音を立てながら我々の前を通り過ぎていく。ある時僕は目の前を通り過ぎるマリンバ男を捕まえて、なぜマリンバ男になったのか訊ねたことが…

サリンジャーとサガン

「サリンジャーってどう思う?」 「緑色」 「緑色?」 「そう、緑色」 「僕が訊いているのは文章のことだよ」 「知ってるわよ」 「じゃあ、他には?」 「真空管ラジオ」 「どうして?」 「なんとなく」 「それじゃ、サガンは?」 「白いブラジャー」 「なん…

マリンバ男

もちろん彼だって最初からマリンバ男だったわけではない。カエルがカエルとして生まれてくるわけではないのと同じだ。いや、それは少し違うかもしれない。すべてのオタマジャクシは時が来れば望むと望まざるとに関わらず自然とカエルになることができるが、…

セニョール・ドミンゴ

彼のしゃべりはあまりに早すぎて、僕は西部劇に出てくるメキシコ人と向かい合っているような気分だった。何を言っているのかさっぱりわからない。そんな僕のことにはおかまいなしに彼はしゃべり続けた。最初は默って聞いていたのだけれど、そのうちだんだん…

博士の髭

博士はたいてい黒い革張りの回転椅子に座っている。僕が呼びかけると一拍おいてくるりと椅子を回し、右手で口髭を2、3度しごいてから、「なんじゃね?」と言う。そのせいで右の髭の方が左よりも少しだけ薄くなっている。実際博士もそのことを気にしている…

たとえば僕は、あるいは君は

たとえば僕はモスバーガーで窓際の席に座っている。テーブル上にはアップルパイとコーヒーが乗っている。季節は冬の始まりで、時刻は午後の4時過ぎ、天気は薄曇り。 たとえば僕は猫舌だから、本を読みながらアップルパイが冷めるのを待っている。マグカップ…

追いかけっこ

公園の芝生に寝そべる僕のすぐ傍らを猫が駆け抜けていったのは午後3時23分のことで、女の子がやってきたのはそれから5分後のことだった。僕は相変わらず寝そべったままだったから、女の子は僕の顔を見下ろす格好になった。きれいな女の子の顔を下から見上…

煙草、海亀、蛍、電車、絵葉書、そして煙草

「吸う?」と彼女が言った。 「タバコは吸わないんだ」と僕は答えた。 「今まで全然吸ったことないの?」 「あるよ。7本」 「7本?」 「そう、7本。小学生の頃、父親が消し忘れた灰皿のタバコをこっそり一口だけ吸ってみた。中学2年の時に何人かで同級生…

僕と、ある女の話

【1】流動ガラス 女が現れて流動ガラスの青いやつを下さいと言う。流動ガラス?流動ガラスって何です?と訊き返すと、女はそこにあるじゃありませんかと怒ったような顔をして指をさした。女の指さす僕の傍らを見ると木製の小さな丸いテーブルがあって、水を…

図書館の門番

誰もが知っていることだけど、図書館には門番がいる。 古い小さな図書館の隅っこに彼は座っている。二階の閲覧室へと続く階段の横に古ぼけた木製の椅子を置いて、大抵じっと高い天井を見つめている。あるいは天井のしみの数を数えるのに飽きた時には、正面に…

世界はまわる

【1】ワゴンに乗った音楽隊 黄色いワゴン車が目の前に止まり、中から音楽隊が降りてきた。全部で12人だった。最初の1人目がぴょんと飛び出すように降りてきてからずっと指を折りながら数えていたから間違いない。念のためにもう一度数えてみたら、やっぱり…