物語

光射す海

光射す海 結局のところ、彼女は僕を求めているわけではなかったし、僕も彼女を求めていたわけではなかった。ふたりとも何かの隙間を埋めるためのささやかなぬくもりが欲しかっただけなのだ。そして、そのことに気づかないふりをしていただけだった。 それで…

はじまりとおわり

線路 僕たちの恋は1月6日に不意に始まり、2月10日に突然終わった。 それは恋とも呼べないものだったのかもしれない。

彼女の話

bar ソファで寝てしまって2時過ぎに目が覚め、それから上手く眠れなくて結局ずっと起きていたせいで夕方に仕事が終わるころにはくたくただった。 携帯にメッセージが届いた時には僕はすでにうとうとしていて、手に持っていたはずの本はソファの傍らに落ちて…

誰かが僕のドアをノックした

森/アイルランド 誰かがまた僕のドアをノックした。トントントン。とても優しい叩き方だったけれども、僕はドアを開けなかった。僕のドアはいつだってかたく閉ざされているのだ。真冬のシベリアの木こり小屋のように凍りついているから、開けたくても開く…

卒業式

かもめ/フィンランド 読んでいた本からふと目を上げると、小さな花束を持った高校生が立っていた。電車の揺れにあわせて、かすみ草が小さく震えていた。僕の背後から差し込んでいる午後の光の中で、それはとてもきれいに見えた。 もう卒業式の時期なんだ。…

僕の土曜日夕方5時

ストーンサークル/アイルランド 例えば土曜日の夕方にFMを流しっぱなしにした部屋で、ひとりでベッドに寝ころび、たまにサイドテーブルに置いたアイスティなんかを飲みながら、読んでも読んでも終わりそうにないほど長い小説を読んだりするのがたまらなく好…

TVニュース

ダムに沈むことになっている村には、今ではもう6つの家しかありません。テレビがそんなことを言う。村には樹齢130年の楠の木があります。僕は紅茶を啜る。トーストを囓る。目玉焼きをつつく。少し塩気が足りないので、小瓶をとってパラパラと振りかける。楠…

耳のなかの骨

夕暮れ/パリ レントゲン技師は、あなたの右耳の奥に少しばかり奇妙な形をした骨があると言うのだった。あなたひまわりの種をたくさん食べませんでしたか、と彼は言った。僕はそんなものを口にした憶えはないので、食べないと答えた。彼は、おかしいなと首を…

サーカス、サーカス、サーカス

観覧車/パリ テントの中は人でいっぱいだった。なんせサーカスがやってきたのだ。犬とロバとネズミのサーカスだ。最初に髭をはやした団長が出てきて挨拶をした。銀色のタキシードを着ている。袖口や裾がすり切れていたけれど、立派なタキシードだった。なん…

貸し切り

どういうタイミングなのか、真夜中の都市高速には一台も車が走っておらず、街灯とビルの明かりだけが現実世界がそこにあることを表しているように思えた。 雨はもう上がっていて濡れたアスファルトがきらきら光っていた。 「世界が貸し切りみたいね」と彼女…

行く先

レストランは海のすぐ側にあって、ガラス張りの二階席からは沈みゆく夕陽と行き交う船がよく見えた。 ジーパンなんか履いて来なきゃよかったな、と彼女は言った。 よく似合ってるけど、と僕は言った。 実際その細いジーンズは彼女によく似合っていた。 少な…

記憶の構成

フィンランド | 通り - ときどき彼女の顔が思い出せなくなった。 輪郭や瞳や口元やパーツはきれいに思い浮かべることができるのに、顔全体を思い出そうとするとぼやけたようになってうまく像が結べない。 そんなときは音楽を聴いた。 昔聴いていた曲をかけ…

猫の時間

もう夜中の1時半だった。 店を出た僕たちはいい加減酔っていた。 空は黒く青く輝いていて、その分空気は冷たかった。 すぐにタクシーに乗るつもりだったのが歩き出したのはなぜだろう。 僕たちはぽつりぽつりとしゃべりながらゆっくりと歩いた。 この先に神…

観覧車

空の真ん中はまだ青く輝いていたけれど、ビルの群れに遮られた地平線はすでに茜色に染まり始めていた。 もう少しで夕暮れが訪れてしまう。 日が沈む瞬間に観覧車に乗っていたいというのが幼い頃の僕の夢だった。 昼と夜の境に観覧車はきっと別の乗り物に変わ…

僕の車

僕のフランス製の小さな車は徐々に死につつある。 ブレーキペダルを踏むたびにキーキーという音が鳴る。 右のテールランプがときどき点灯していないらしい。 エアコンのどこかにごく小さな穴が空いてガスが漏れているせいで、冷気はほとんどでない。 そして…

記憶

あの冬はひどく寒かったことをおぼえている。 車の中もひどく寒かった。 空港で、僕は壁際の出っ張りに腰掛け文庫本を開いていたけれど、目は活字を追うばかりで実際にはほとんど何も頭に入ってこなかった。 彼女はグレーのフード付きのコートを着て現れた。…

二十四の春に僕は羅針盤を失った。それは唯一無二のものというわけではなかったし、なくなれば僕の人生が変わってしまうという性格のものでもなかった。にも関わらず、それを失うことによって僕は少なからず混乱し、同じ場所をぐるぐると歩き回っているよう…

雨宿りと猫

ときどき思い出したように雨が降った。 僕たちは軒先で雨宿りをした。 猫が何匹も狭い路地を横切った。 猫たちはちらりと僕たちを眺め、無関心なふりをしてゆっくりと歩いて行った。 僕たちはよそ者だった。

プールと野ウサギ

「あなたって春の雨降りのプールみたいよ」と彼女は言った。 首に巻いたマフラーを引っぱりながら空を見上げると、もうすぐ雪が落ちてきそうだった。 「プールって?」と僕は訊ねた。 「つまり」と彼女は言った。 「つまり、樫の木の根元の穴の中で眠ってい…

口癖

きれいだようというのが口癖なのである。ヤマモトさんのことだ。道を歩きながらしょっちゅうきれいだようと呟いている。なにがそんなにきれいなのかと覗き込んだら、蟻が列をつくっている。蟻の背中が日差しのなかで光っているのがきれいなんだそうだ。こな…

砂漠の電話

砂漠には電話がある。それは砂漠を二つに分断する北に延びる道路に置かれている。まわりには何もない。ただ黄ばんだプラスチックの覆いがついた黒い電話がひとつあるだけだ。どうしてそんなところに電話が置かれているのか、誰も知らない。そもそもこの道を…

はじまり

「短すぎるフライトっていうのも疲れるものなのよ」と彼女は言った。僕はあいまいに頷いた。 航空会社の機内誌に地方の土産物を紹介する半ページの短い記事を書くために、僕は月に一度会社から紹介されたスチュワーデスに話を聞いた。事前に聞いておいた名物…

オリーブラジオ

オリーブラジオは町外れの三階建ての古い雑居ビルの中にひっそりと存在している。最上階の角部屋の南と東の窓からは明るく陽が差し込み、緩やかに曲線を描く高い天井は心地よい空間をつくっている。色あせた壁紙の一部は端が浮いて剥がれそうになっている。…

水映

製銅所は小川のすぐ脇にあった。小屋の外側には小さな水車が取りつけられていて一日中ゴトゴトと音をたてていた。むかしは動力に使われていたであろうその水車は今ではどこにもつながっておらず、水の流れにしたがってただひとりで回り続けている。 製銅所か…

残されたもの

その友人が僕に残したのは一坪ほどの土地だった。なぜそんなものを僕にくれたのかわからないし、そもそも彼が土地なんかを所有していた理由もわからない。彼の代理人だという男がやってきて、僕は言われるままに小さな字でよくわからないことが書いてある書…

物語が始まる前の物語

修道院の屋根裏に住み着いた鳩が三つの卵を産んだちょうどその時、町外れを流れる川の畔で彼女は白詰草で編んだ首飾りを完成させたところだった。彼はそこから2000キロばかり離れた小さな日当たりの悪いホテルの一室でベッドに入って眠りにつこうとしていた…

誰もが自分の人生を語りたがった

誰もが自分の人生を語りたがった。ある者はいかに自分が不幸であったのかを涙を流しながら説明し、ある者は一昼夜にわたってただひたすら自慢を続けた。多かれ少なかれ、誰もが語るべきことを抱えていた。途中で声が出なくなり、それでもなお筆談に頼って語…

僕らのジューシーフルーツガム・フィーバー

「ポケットにはいつもジューシーフルーツガム」というのが、その冬の僕らの合い言葉だった。誰もが暇さえあれば竸い合うようにしてジューシーフルーツガムを噛んだ。歩いている時も、プールで泳いでいる時も、授業中も、ガムなしではいられなかった。ある者…

バンブー

大学の正門の前には、夜になるとバーに代わるバンブーという喫茶店があって、僕がそこで最後にコーヒーを飲んだのは卒業式の日だった。卒業式には出なかった。理由なんて特にない。もし朝起きたときに冷蔵庫のオレンジジュースが切れていなかったら、出席し…

忘却

彼のフランス製の小さな青い車はやがて壊れてしまった。プスンと小さな音を立ててそれきり止まってしまった。彼はその車をとても愛していたからひどく悲しかったがそれはどうしようもないことだった。 しばらくして彼は車を分解しはじめた。車のまわりをぐる…