2006-01-01から1年間の記事一覧

彼女は笑顔を世界中に振りまいた。ずっと昔の話だ。今ではもう誰も彼女のことを知らない。冷たい雨に打たれたこともあったし、子供に小石をぶつけられたこともあった。それでも、彼女は微笑みつづけてきたし、今でも微笑みつづけている。すっかり錆の浮き出…

空間

「何でも知ってるのね」 「毎晩寝る前にブリタニカの百科事典を読んでるんだ」 「そこに私のことも載ってるの?」 「Jの項まで読み終わったけど、まだ出てこない」 「あなたのことは書いてあったの?」 「僕のことなら、読まなくたってわかってる」 「そうか…

名刺

朝から晩までずっと会議と打合せという日がたまにあって、まさに今日がそんな日で、僕は少しくさってしまう。熱くて濃いコーヒーを飲んでも頭の奥の少ししびれたような感触はどこにも去っていかず、秋の冷たい空気も肌に浮かんだ脂を流してはくれない。 今日…

昨夜うまく眠れなかったのは、たぶん風が強かったせいではない。教会の隅に座ってぼんやりとパイプオルガンを眺めている僕に老女が言った。あなたはカトリック教徒なの?彼女の囁くような小さな声はいつまでも空中を漂っていた。いや、僕は…、僕は仏教徒です…

027

「花屋になりたかったの、ずっと昔のことだけどね」と彼女は言った。そして、「ありふれた夢でしょう」と笑った。 「もう花屋にはなりたくない?」と僕は訊ねた。 「今はね」と彼女は言った。 「どうして?」 「どうしてかな」と彼女は言い、少し考えてから…

晴れた日の豆ごはん

もう少しで豆ごはんが炊きあがる、というところでチャイムが鳴った。出てみると黒いスーツを着た男が立っている。「ご主人さまでございますか?」男はにこやかに言った。ご主人さま?まるでランプの魔人みたいなせりふだ。僕が答えるより早く、男はアタッシ…

旅のはじまり

飛行機はビルの横を通り抜け、静かに着陸した。車輪が滑走路につき前のめりの重力がなくなると、乗客から大きな拍手があがった。ポルトガルでは、そういうものらしい。 なぜかホテルについてシャワーを浴びているときにそのことを思い出し、少し幸せな気分に…

夏はまだ来ない

まだ夏というには少し早いころ、僕は山あいの小さな町を訪ねた。とくに目的があったわけではなく、ただ電車に乗って少し離れたところまで行ってみたくなったのだ。 80年代には観光地としてにぎわったその町は今では少し寂れた感じを漂よわせていて、平日の通…

雨の午後に世界について語る

ひどいことに部屋には紅茶もコーヒーも切らしていて、僕は仕方なくレモンを厚く切ってカップに入れ湯を注いだ。彼女はしばらく黙ってカップを見つめていた。それから両手でカップを抱えこみ、そのまま窓の外を眺めた。窓の外ではまだ雨が降り続いていた。暗…

太陽を追いかけた男

「太陽を追いかけた男の話知ってる?」と彼女は訊ねた。僕が答える前に彼女はゆっくりと話しはじめた。「むかし、夕日を追いかけようとした男がいたの。夜の間太陽がどういう行動をしているのか確かめようと思ってね。男は夕日を追いかけて西へ馬を走らせた…

リンゴのかたちをした幸せ

リンゴのかたちをした幸せについては多くのことが語られている。それを最初に手にしたのは、山高帽をかぶり、鼻眼鏡をかけ、こうもり傘を持った公務員だったと言われている。彼が山羊髭を生やしていたことから、当時の人々の間では同じように山羊髭を生やす…

060319

地図のことからから始めなければならない。地図を描くにはふたつの方法がある。自分を世界の中心におくこと、そうしないこと。どちらをとるにせよ、僕たちは地図を描かなければならない。それが最初にやるべきことだ。

悲しき雨音

彼女の左手には三つの指輪がつけられていた。人差し指と中指と小指だ。右手にはひとつもない。僕は一度指輪の意味を訊ねたことがある。意味なんてないわよというのが彼女の答えだった。あなた、コーンフレークに特別な意味を見出せる?と彼女は訊ねた。真剣…

オレンジ色の栞

彼女は、あなたは本を読むときにいつもページを折り曲げているでしょうと言った。それはよくないことなのよ。栞の役割を奪ってしまっているから。そう言った。そのあいだ僕は何も喋らず、じっと彼女の指先を見ていた。きれいに短く丸くカットされた爪は浜辺…