忘却

 彼のフランス製の小さな青い車はやがて壊れてしまった。プスンと小さな音を立ててそれきり止まってしまった。彼はその車をとても愛していたからひどく悲しかったがそれはどうしようもないことだった。
 しばらくして彼は車を分解しはじめた。車のまわりをぐるりと歩き、まず最初にタイヤを外した。ボルトはひどく固く締まっていてひとつ外すだけで10分近くかかってしまい、おまけに冷い風が吹きつけるせいで力を入れ続けた指は赤く腫れはじめていた。ふたつめになるといくぶん作業の速度はあがったが、指はますます痛みを増した。ようやく四本のタイヤをすべて外し終わったときには、もう太陽は西の大木の根本の付近にあって闇がすぐそこまで迫っていた。
 その晩彼は車の中で眠った。夜になっても相変わらず風は強く、西の大木は轟々と大きな音を立てた。まだ窓ガラスは外していなかったものの、目に見えない隙間から風が入り込んできて、踝や首筋をなでていった。そのたびに彼は大きなくしゃみをし、毛布をかき寄せ、そしてまた眠った。
 三週間ほど経つと車はほとんどその姿をとどめてはいなかった。ボンネットもテールランプもドアもシートもできるかぎり何もかもが外され、残った車体の両側にきちんと並べられた。彼はときどき西の大木に登り自分が分解した車を眺めた。そうやって見ると、草原の中に置かれたそれは昆虫のようにも魚のようにも見えた。
 ひとつ部品を外すたびに彼は昔のことを思い出し、そしてひとつずつ忘れていった。今ではもうほとんど何も覚えていなかった。ただ下に広がる緑の草原が風で波打つのを眺めるだけだった。