ダスト・シュート

  いつからか知らないけれど、そこにゴミを捨てるのは禁止されていた。たぶん僕が小学校に入る少し前からじゃないかと思う。入学してからシューターの使用を禁止する放送や張り紙を見たことはないし(僕はそのようなあまり役に立ちそうにない記憶についてはひどく自信を持っている)、シューターの蓋を開くとかすかに頬をなでる埃っぽい風はそれが死んでしまってからさほど多くの時間を過ごしたわけではないことを示していた(もちろんそんなことを思ったのはずっとあとになってからのことだ)。禁止されているとはいっても、蓋に鍵がかけられているわけでもなく見張りがついているわけでもないから、僕らはときどきこっそりといろんなものを捨てた。給食で食べ残したパンのかけらだとか、廊下の掃除をしたあとにちりとりで集めた砂混じりの埃だとか、紙飛行機に姿を変えたプリントだとか、そんなものだ。僕が通っていたのは小さな小学校だったから、そんなに多くのものが捨てられたわけではないと思う。目立つ大きなゴミを捨てる生徒もいなかった。
 廊下の壁にとりつけられているシューターを開くたびに、僕らは心を躍らせた。シューターの蓋の上の方についた取っ手を引っ張ると、それは簡単に開いた。鉄製の蓋の内側には同じく鉄の底板がつけられていて、完全に開いてしまうとシューターの穴はふさがれてしまう。そのため僕たちは蓋を半分ほど開けた状態で中を覗きこんだが、見えるのはいつもシューターの向こう側の暗い色をしたコンクリートの壁だけだった。そのたびに僕らはがっかりして顔を見合わせた。
 あきらめてシューターをいっぱいに開け(そうすると奥のコンクリートさえ見えなくなる)、蓋の裏側にゴミを乗せる。蓋を閉める。もう一度蓋を開ける。そこには何にもない。僕らには、そのことがテレビで見る鳩を出すマジックよりもずっと不思議に感じられた。
 廊下の壁に耳をぴたりと押し当ててものが落ちる音を聞こうとする試みも無駄に終わった。誰かが使い古して短くなった鉛筆をそこに放り込んだときも、校庭からわざわざ小石を拾ってきたときも、シューターは何の音もたてずにそれらを飲み込んだ。ときどき僕は光も音もない世界を想像してみたけれど、うまく理解することはできなかった。それは、今でも同じだ。