たとえば僕は、あるいは君は

たとえば僕はモスバーガーで窓際の席に座っている。テーブル上にはアップルパイとコーヒーが乗っている。季節は冬の始まりで、時刻は午後の4時過ぎ、天気は薄曇り。

 たとえば僕は猫舌だから、本を読みながらアップルパイが冷めるのを待っている。マグカップのコーヒーにはもちろん砂糖もミルクも入ってはいない。緑色のシャツの上に薄い灰色のエプロンをした店員たちは楽しそうに何かをしゃべっている。天井から吊り下げられたスピーカーからはどこかで聴いたような歌が流れている。歌っているのが誰だか、僕は知らない。

 たとえば僕は電車の走る音を聞く。モスバーガーのすぐ裏には線路が走っている。4両編成の電車がたまに通り過ぎるだけの私鉄の単線。一組のカップルが僕から一番離れた席に座っている。ふたりともチーズバーガーを食べている。彼らは二重の意味で正しい。ひとつはバーガーショップできちんとハンバーガーを食べているという点で。もうひとつはモスのチーズバーガーはおいしいという点で。きっとあのふたりには電車の音は聞こえない。

 たとえば僕は本を読むのに少しだけ疲れて、窓の外を見ながらコーヒーを一口飲む。アップルパイはまだ僕が囓れるほどには冷めていない。窓の外には狭い国道が走っている。車がひっきりなしに行きかっている。

 たとえば僕はひとりの女の子が歩道をこちらに向かって歩いてくるのを見る。彼女はゆっくりと歩いてくる。赤い服を着て、ジーンズを履いている。肩から黒い大きなバッグをかけている。彼女の姿がだんだんと大きくなってくる。

 たとえば僕はアップルパイのことが気になる。もうそろそろ食べごろなんじゃないだろうか。モスバーガーのアップルパイは食べるタイミングが難しい。慌てて食べると口の中を火傷するはめになるし、放っておきすぎると冷たくなって油っぽくなってしまう。だけど僕は女の子から目が離せない。肩に触るくらいで揃えられた髪の毛は風に吹かれてさらさらと揺れている。瞳はまっすぐ前を向いている。

 たとえば僕は、彼女を見つめたままアップルパイを一口囓ってみる。中身には届かない。もう一口囓る。ぱりっとした皮ととろとろのリンゴソースとぷにゅっとしたリンゴの欠片。アップルパイはもう熱すぎることはない。その間に女の子はさらに近づいている。今では彼女について細かいところまではっきりと見える。彼女が着ているのは赤いパーカー。

 たとえば僕は自分のことを見る。着ているのは赤いパーカー。80%の綿と20%のナイロンの安物だけど、生地が厚く暖かい。黒色の裏地と赤色の表地のコントラストが気に入って買った。サイズはLで、僕には少しだけ大きい。彼女は僕の座っているすぐそばをガラス1枚隔てて通り過ぎてゆく。フードの裏側が見える。黒い裏地。

 たとえば僕は、少しだけ驚く。もちろん彼女の方は僕の存在にも赤いパーカーにも全く気づかない。まっすぐに前を見つめたまま歩いていく。

 たとえば僕はアップルパイを見つめる。たぶん僕のアップルパイはもう冷えすぎている。もちろんコーヒーもぬるくなっている。

 たとえば僕は急に熱いシナモンティーを飲みたくなる。だけど残念なことにモスバーガーにはシナモンティーはおいていない。さらに残念なことに彼女が振り返ることは一度もない。赤いパーカーが少しずつ遠ざかっていく。僕はぼんやりとしながら、ぬるいコーヒーを啜る。
* * * * * * *

 たとえば君は手紙を書き終える。長い長い手紙だ。書き上げるのにずいぶん時間もかかった。あんまり長すぎて、何を書いたのか自分でも忘れてしまうほどの手紙。はっきりと憶えているのは、インクの色だけだ。ミッドナイトブルーという名前の通りに茫洋とした色だけが、なぜか頭から離れない。

 たとえば君は早く手紙を届けたいと思う。手紙を届けるためにはどうすればいい。簡単だ。ポストに入れればいい。もちろん、ポストがありさえすれば。君は部屋を出る。季節は冬の始まりで、時刻は午前10時、天気は薄曇り。

 たとえば君はアパートを出て、立ち止まる。右を見て、左を見て、3秒ほど空を見つめ、次に下を向く。それから左に向かって歩き出す。その理由は、たぶん心臓が左側にあるからという程度のことだ。空を見つめたのには、理由はない。

 たとえば君はこうばしい香りのする小さなコーヒー豆の店を見つけるだろう。木にとまったカササギを見つけるだろう。アスファルトの上に落ちた椎の実を見つけるだろう。そんなふうにいろんなものを見つける。だけどポストはどこにもない。君は歩き続ける。

 たとえば君はずいぶん長いこと歩き回ったあとに、小さな郵便局を見つける。だけどそこにもポストはない。君は中に入って「手紙を出したいのだけれど」と言う。髪の毛をポニーテールに結んだ丸い顔をした女が「手紙はポストに入れてください」と言う。「でもポストが見つからないんです」と君が訴えると、ポニーテールの女は「それは困りましたね」と大して困ってなさそうな顔で応える。それはそうかもしれない。困っているのは、彼女ではなくて君なのだ。そして君はあきらめて、外に出てもう一度ポストを捜すことにする。

 たとえば君は歩き続ける。落ち葉の積もった小道を歩き、小川に架かった小さな木橋を渡り、車の行き交う国道を横断する。ポストを捜して。君が着ているパーカーと同じ赤い色を捜して。

 たとえば君は頭上に赤いものを見つける。違う、ポストは空には浮かばない、と君は思う。そう、それは信号機の赤。君は道路の上を近づいてくる赤いものを見つける。違う、ポストはすごい速さで動いたりはしない、と君は思う。そう、それは消防車の赤。君はガラスの向こうに赤いものを見つける。違う、ポストはモスバーガーの中にはない、と君は思う。君は歩き続ける。

 たとえば君は小さな公園のベンチに腰掛けて少し休む。古い木製のベンチだ。背もたれのペンキもすっかり剥げている。もう歩き疲れた。ずっと封筒を握りしめていた右手が冷たい。君は右手に息を吹きかけて暖めようとする。そして封筒に目をやり、宛名を書くのを忘れていたことに気がつく。何も書かれていない真っ白な封筒。そうだ、宛名がなきゃ。

 たとえば君はポケットを探ってみるけれど、ボールペンはなく、代わりに飴玉が二つばかり見つかる。そして飴玉をくわえながら、君はもっと大事なことに気づくのだ。いったい誰に手紙を届けようとしてるんだろう。飴玉が口の中で完全に解けてしまうまでゆっくり慎重に考えてみるけれど、君にはどうしても思い出すことができない。仕方がない、帰ろう。君は立ち上がる。

 たとえば君は公園の出口に薄汚れた白い犬を見つける。残った飴玉を投げてみても、犬は匂いを嗅いだだけでどこかへ行ってしまう。君は犬とは逆の方向に歩き出す。

 たとえば君はアパートの入り口まで戻ってきて、なんだか大事なものを見逃してしまっているような気がして立ち止まる。あたりをぐるりと見回す。君は右手の中の手紙を見て、首をゆっくりと左右に動かす。そして手紙を自分の部屋の郵便受けに入れる。たぶん、これでようやく手紙を届けることができる。本当にずいぶん長いことかかってしまった。そう君は思う。

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 たとえば僕は熱いシナモンティを捜してモスバーガーを出る。白い野良犬とすれ違う。僕は口笛を吹いてみるけれど、犬は振り向かない。風が吹き、僕はパーカーのファスナーを上げる。

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 たとえば君は自分の部屋に入り、パーカーのファスナーを下ろす。体は冷え切っている。やかんを火にかけながら、ふと、これでいいのかと思う。本当に手紙を届けるべき相手がどこかにいるような気がする。君は熱いシナモンティを飲みながらぼんやりとそのことについて考え始める。