僕と、ある女の話

【1】流動ガラス
 女が現れて流動ガラスの青いやつを下さいと言う。流動ガラス?流動ガラスって何です?と訊き返すと、女はそこにあるじゃありませんかと怒ったような顔をして指をさした。女の指さす僕の傍らを見ると木製の小さな丸いテーブルがあって、水を張った洗面器に黄色い流動ガラスが入っている。ああ、そうだった、僕は流動ガラスのことをよく知っているんだったと思い出す。女に渡すために流動ガラスを掴もうとしたけれど、それはつるつるしてうまく掴めない。その姿がおかしかったのか、女は急に笑い出した。笑う女に腹が立って僕は笑うなと言った。すると女は、もう間に合わないわ、もうだめよ、世界は滅びてしまうのよと急に泣き出した。そうか世界が滅びるのか。僕は困って流動ガラスを見つめていた。黄色い流動ガラスは少しずつ少しずつ色を変えて、最後には青色になった。もうこれで大丈夫だとうれしくなって女の方を見ると、その手の中にはすでに青い流動ガラスがあった。僕の流動ガラスよりも透き通ってきれいな青色をしていた。とても悲しくなったが、それは仕方のないことだった。

【2】ねじ工場
 町外れにあるねじ工場では3人の女の子が働いている。ねじに顔を描いているのだ。ひとりは目を描き、ひとりは鼻を描き、そしてもうひとりは口を描いている。彼女たちは、ものすごく毛先の細い筆と透明なインクを使ってひとつひとつ丁寧に描き込んでいく。大変な仕事だ。ねじの先端の一番尖った部分に顔が描いてあるなんて誰も知らない。僕だってついこないだ知ったばかりだ。ねじに顔を描くっていうのはこの工場だけのオリジナルなので秘密にされているのだ。僕はその秘密をこっそりと打ち明けてくれた目の係の女の子に、どうしてねじに顔なんか必要なんだいって訊いてみた。ねじに目があるとね、まっすぐに進んでくれるのよと彼女は教えてくれた。じゃあ鼻と口は?と訊ねると、それはわたしの担当じゃないから教えられないわと言った。彼女たちはいわば一種の職人だから、仕事の縄張りについてはすごくうるさいのだ。耳は必要ないのかな?と訊くと、耳なんかあったらねじがうるさくてかわいそうでしょうと呆れられた。眉毛もいらない?と訊ねると、女の子は少しためらってこう言った。ほんとは規則違反なんだけど、たまにこっそりと描いてるの。だって眉毛がない顔ってやっぱりちょっと変でしょ。僕はそれを聞いてなんだか少しほっとした。

【3】鉄塔
 ぐるりと見回しても目に入るものは、緑色の柔らかそうな草に覆われたなだらかな丘と青く透明な空だけだった。草原の中に僕はたったひとりで立っている。不意に笑い声が聞こえて振り向くと、白いブラウスと緑色のロングスカートを身につけた女が立っていた。女は僕の顔を見るとスカートの裾を翻して走り出した。走りながら笑い、笑いながら僕の顔を見つめ、僕の顔を見つめながら走った。どんどん遠ざかっていく女を僕は追いかけた。あと少しで追いつくというところで、女は急に倒れ込んだ。倒れ込んだ女を抱きかかえると、女は笑った。そして急に笑うのを止め、焦点の合ってない目で僕を見て言った。あなたに薦められた本を読んでみたけど、また行っちゃいそうになったわ、あなたのせいよ、あなたのせいでまた向こう側に行かなきゃいけないのよ、だって鉄塔が出てくるんですもの。言い終わってまた笑った。鉄塔?気がつくと僕の目の前には高い鉄塔が建っていて、女はいつの間にかそれに登り始めていた。笑いながら登っていく。僕はまた追いかけようかとも思ったけれど、ただじっと見ていた。女はどんどん高く登っていき、どんどん小さくなっていった。そして消えた。

【4】ジェリービーンズ
 彼女の夢はジェリービーンズになることだった。小さい頃から憧れていたという。ジェリービーンズなんて硬くも柔らかくもなくぐにゃりとしてるし、中途半端に甘くて、どうもはっきりしない食べ物だ。そんなものになりたいなんて僕にはどうしても理解しがたいことだったが、だけど人の夢なんてもともと他人には理解しがたいものなのだろう。彼女はジェリービーンズになるためにいろんな努力をしていた。学校の授業には毎日きちんと予習して出席していたし、週に2回スイミングスクールにも通っていた。彼女が言うには、きちんとしたジェリービーンズになるためには数学の偏差値が64以上なければならず、その上10キロメートル以上の遠泳ができなければいけないのだそうだ。数学ができて泳げるジェリービーンズなんて見たこともなかったけど、きっとそれは僕の知っている世界が狭きに過ぎるのだろう。だけど彼女には悩みがあった。黄色いジェリービーンズになるには、ほんのちょっとだけ身長が足りないのだ。黄色だろうがピンクだろうがあんまり変わりはないと思うのだが、どうやら黄色っていうのはジェリービーンズの中でも特別なものらしい。そういうわけで彼女は悩んでいる。緑色のジェリービーンズで妥協するか、トンガ王国へ行くか。どうやらトンガ王国では黄色のジェリービーンズが不足していて、基準がゆるめられたらしいのだ。まったく世界には僕が知らないことがたくさんある。

【5】マフラー
 あなたの欲しいものを何でも差し上げましょうと女が言う。僕は見ず知らずの人から何ももらうわけにはいかないと断った。女はそれでは私が困るのですと悲しそうな顔をした。仕方がないので一生懸命考えた。だけど結局何も思いつかない。何も思いつかないんだけどと僕が言うと、ではあなたのものを何か下さいと女が言う。そう言われても僕は何もあげるものなんか持ってなかった。僕が身につけているものといえば、色のあせたTシャツと裾がほころびたジーンズ、そして踵のすり減ったスニーカーだけだった。ポケットにはハンカチすら入ってなかった。何もないよと言うと、女は仕方がありませんねと残念そうに呟いた。僕は心の底から申し訳ない気分でいっぱいになり、今度までに用意しておくよと謝った。では私のためにマフラーを編んでくれませんかと女が言うので、僕は承知した。今、僕は暖炉の前でマフラーを編んでいる。最初は黄色い毛糸で編んでいたのだが途中で切れてしまい、僕は灰色の毛糸で続きを編んだ。灰色の毛糸もなくなり、代わりに緑色の毛糸を使った。緑は赤に代わり、赤は青に代わった。もうすぐ青の毛糸がなくなる。彼女はいつになったら来るんだろう。