卒業式

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かもめ/フィンランド
 

読んでいた本からふと目を上げると、小さな花束を持った高校生が立っていた。電車の揺れにあわせて、かすみ草が小さく震えていた。僕の背後から差し込んでいる午後の光の中で、それはとてもきれいに見えた。

もう卒業式の時期なんだ。腕から提げられたバッグから黒い筒が覗いているのを見て、僕はそう思う。

「かすみ草だけの花束って素敵じゃない?」彼女はそう言った。

たぶん、あれは初めて一緒に映画を観た日の帰り道のことだ。

僕らは高校二年生で、クラスメイトで、そして季節は冬だった。どんな映画を観たのか、まったく思い出せない。どうして二人で映画を観ることになったのかも、憶えていない。たぶん僕が誘ったのだろう。とにかく僕らはポップコーンを食べながら映画を観た。僕はつっかえながら冗談を言い、彼女はぎこちなく笑った。

それが僕らの初めてのデートだった。 

どうして彼女が急にかすみ草のことを言い出したのか、僕にはわからない。

僕らはバスターミナルに向かって商店街を歩いていたから、たまたま花屋の隣を通り過ぎたか、もしかしたらかすみ草の花束を抱えた人とすれ違ったのだろう。あるいは、ただ単に話題に困って思いついただけなのかもしれない。

いずれにせよ、その彼女の言葉を僕はしっかりと記憶の片隅にとどめた。もちろん、いつかかすみ草の花束を贈るつもりで。

それから菜の花の季節がやってきて、暑い太陽が僕らの頭の上を通り過ぎ、紅葉の終わった葉が散りはじめた頃、彼女は入院した。先天性胆管拡張症というのが、彼女の病名だった。

クリスマスがやって来ても彼女はまだ病院にいた。

年が明け、三学期が始まり、大学のセンター試験が終わった頃、彼女は退院した。だけど、それは他の病院へ移るための一時的な退院だった。移った先の病院で彼女は9時間かけて手術を受けた。二月の最初、とても寒い日だった。

やがて僕らの卒業式がやってきた。

彼女は病院から卒業式にやってきた。久しぶりに制服を着た彼女と顔を合わせるのは、何だか少し照れくさかった。たぶん彼女もそう感じていた。

彼女の肩からは黒いポシェットが提げられていた。その中には小さなプラスチックのボトルが入っているのを、僕は知っていた。ボトルは透明な管に繋がり、管は彼女の体に繋がっている。胆汁を出すための管だった。

何ヶ月かぶりに学校に来て友達に囲まれた彼女は、元気そうに、そして嬉しそうに喋っていた。

やがて式が始まった。何度もやった予行演習のせいで、馬鹿馬鹿しいくらいきちんと式は進み、そしてきちんと終わった。それぞれにクラスに戻り、担任から卒業証書と記念品をもらい、高校生活最後の公式行事はすべてが終わった。

しばらく友達と過ごしたあと、彼女は病院に戻り、僕は所属していたクラブの送別会に出席した。結局、僕と彼女はいくつかの単語を交わしただけだった。まるで初めてのデートの時に戻ってしまったみたいに。

クラブの送別会は何となく間延びした感じでだらだらと進んだ。あるいは僕がそう感じただけかもしれない。僕は病院に行く約束をしていた。

やがて送別会が終わり、僕はバス停へ急いだ。バスに30分乗り、それから歩いて15分ほどのところに、彼女が入院している大学病院はあった。

ベッドの上の彼女は見馴れたパジャマ姿に戻っていた。パジャマの彼女はよく喋った。そしてよく笑った。あの時の彼女を思い出すたびに、よく陽があたる芝生で遊ぶリスを連想してしまうのはなぜだろう。

突然彼女が言った。「ねえ、ボタン…」

学生服の一番上のボタンは後輩の女の子にねだられて、あげてしまっていた。

「物好きな人もいるのね」彼女はそう言って笑った。笑いながら怒った。

「第二ボタンじゃないから、まあ、いいか」そう言ってまた笑った。

そのあと、僕は第二ボタンと襟章を彼女にとられた。

それが僕らの卒業式だった。

僕の前に立っていた女の子は、いつのまにかいなくなっていた。

もう卒業式か。僕はそう思う。

そして、結局彼女に一度もかすみ草の花束を贈らなかったことを思い出す。

僕らの卒業式は、もうとっくに終わってしまったのだ。