しゃぼん玉の夏

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 しゃぼん玉/パリ 

 

ずっと昔のことだけれど、夜中に小学校のプールに忍び込んで泳いだことがあった。

僕は夏休みの間その小学校でプールの監視員としてアルバイトをしていて、プールの門扉の鍵を預かっていた。今みたいにセキュリティやらコンプライアンスやらよくわからない言葉が氾濫してはいなかった。夜警の警備員の代わりに、ヤギがのんびり昼寝をしてそうな牧歌的な時代。平和な小学校。

僕はできるだけ音がしないように門扉を開けようとしたが、それは無駄な努力だということも知っていた。古く錆び付いた門扉はどんなに丁寧に扱っても断末魔の叫び声のような音を立てるのだ。僕は諦めて、ごく普通にかんぬきを外し門扉を引っ張った。一瞬だけ耳障りな音がしたが、それだけだった。

満月には少し早かったが月の光は水面にきらきらした模様をつくっていた。僕はそこに足を付けるのが悪いような気がして、しばらく木製のベンチに座って水面と月を眺めていた。記憶とは不思議なものだ。今でも僕はそのときの月の光とベンチのペンキの臭いを思い出すことができる。

しばらくして僕は静かに水に入った。できるだけ光の模様を壊さないように、できるだけ波紋を広げないように。そうしてゆっくりと仰向けに浮かんだ。月の光をながめながら浮かんでいるのはすてきな気分だった。世界には僕だけしかいない気がした。その孤独感がひどく心地良かった。

水にはまだ太陽の臭いが少しばかり残っていた。太陽と塩素の臭い、それは夏の間中僕の体に染みついていた。逆に言えば、その夏、僕が手に入れたものはその2つだけだった。失くしたものについては数える気にもならなかった。

暑く長い夏だったけれど、しゃぼん玉のように儚い夏だった。