旅の始まり、その前

 日付が変わったころに守衛がやってきて僕の部屋のドアを叩いた。彼は不思議そうな恐縮したような顔で、電気の消し忘れかと思いまして、と言った。僕は礼を言い、またパソコンに向かった。夜中に締め切りの過ぎた原稿を書いていると、世界中の人間を敵にまわしたような気分になってくる。きっと紺色の制服を着た老人だけが僕の味方なんだろう。それも悪くないかもしれない。

 プリンタが最後の紙を吐き出すころ、時計の針は2時をまわった。それから、事務室の鍵を開け、コピー機のスイッチを入れた。コピーの緑色の光を見ていると、いつも僕は何かを責められているような気分になる。

 封筒を抱えて外に出ると、ひどくしんとしていた。街灯の明かりまでがしんとしていた。世界は僕だけを残して滅びてしまったみたいだった。もちろんそんなことはない。コンビニエンスストアはいつものように人工的な光をまき散らしながらきちんと営業していた。宅配便の手続きを済ませた封筒はひどく安っぽく見えたが、それは白っぽい蛍光灯のせいなのか、それとも中に入っている原稿のせいなのか、僕にはよくわからなかった。たぶん、両方なのかもしれない。

 ようやく自分の部屋にたどり着きベッドに潜り込んでも、眠りはなかなかやってこなかった。一度起きだして、二口ほど飲んだウイスキーもあまり効果はなかった。結局2時間ほど眠っただけで、僕はベッドを抜け出した。

 今回も旅もそうやって始まった。

 いつ離陸したのか、まったく覚えていない。日本を飛び立つときも、仁川を離れたときも僕は寝込んでいて、夢を見ながらどうしてこの飛行機はいつまでも飛び立たないんだろうと思っていた。気がつけばビバリッジサービスが始まっていた。

 何杯か飲み物を頼み、たいして欲しくもない機内食を食べ、映画を1本見て、バックパックに入れてきた5冊の本を読み終わると、ようやくヒースローだった。

 フライトコネクションを抜け、パスポートコントロールを通過して、カフェでコーヒーを飲むと、ようやく少し落ち着いた気分になる。昨日の仕事のことが少しだけ頭をかすめたけれど、日本もパソコンももうずっとうしろのほうにあって、僕の手の届くところにはなかった。

 予定通りに離陸したBMIの狭いシートで僕はまた眠る。どれだけ寝ても、眠気はちっとも去らない。僕の眠りは誰かに奪われ続けているようで、それはなぜかひどく心地よい感触だった。

 ダブリン空港の翼の生えた豚を横目で見ながら、ベンチに座っている。少し肌寒くて、マウンテンパーカを引っ張り出そうかと思っていると白い小さなバスがやってきて、ひどく大柄なスチュワーデスと僕を乗せて走り出す。豚はひとり取り残される。

 チェックインを済ませたものの、部屋を見つけることができない。グランドフロアと一階を間違えていては見つかるわけはない。それは、いつものことだ。部屋に入るとシャワーが出ず、フロントに電話する。若い男がやってきてダイヤルをひねるけれど、やはりそれは回らない。次にやってきた小柄なおばさんは難なくダイヤルを回し、にっこりしながらちょっと調子悪いのよと言う。温度調整もあんまりうまくいかないし、部屋変えてあげようか?ありがとう、できたらそうしてもらえますか、と僕は答える。しかし次の部屋は鍵が壊れていて、結局その向かいの部屋に寝ることになる。よくわからない漢字がたくさん書いてあるヘンなシャワーカーテンがつけられていることを除けば、悪くない部屋だった。おばさんは、もう一度にっこり笑っておやすみと言って去っていった。おやすみ、僕も答える。そして、また眠る。

 旅は始まったばかりだった。