030601

 なぜか出張に行くといつもひどく耳が痒くなって、僕はいつも空港やコンビニで耳かきを買うことになってしまう。歯ブラシや髭そりと一緒に耳かきを一本入れておこうと思うのだけれど、次の出張の時にはそんなことはきれいに忘れている。何度も買ったはずの耳かきが鞄の底に一本くらい転がってそうなものだけれど、いまだかつてそんなことは一度もなかった。結局、小さなだるまやふわふわした白い綿毛やプラスチックのイルカやなんだかよくわからないものがついた耳かきを繰り返し買い求めることになってしまう。僕だって好き好んでそんな格好悪いうえに使いにくい耳かきなんて使いたくはないのだけれど、シンプルで実用的なものはどこにも見あたらない。

 決まって耳が痒くなるのはたぶん飛行機や新幹線で移動する時の気圧の変化のせいだと思う。さすがに空港や駅で耳かきをすることはできないから、僕はひたすらホテルまで我慢するしかない。耳の痒さって不思議なもので、ちょっとしたことですぐに忘れてしまうのだけれど、そういえば昼間耳が痒かったなってことを思い出したとたんに再び痒くなる。それは忘れる前の何倍かの猛烈な痒さだ。そうして何時間か前に買ったはずの耳かきを慌てて探すはめになる。

 ところで僕はこの文章を羽田空港の地下1階にある紅茶の店で書いている。ずっと以前に、この店でひどく優雅にクレープを食べる女の子を見たことがある。ナイフとフォークはアイスダンスのペアのように白い皿の上を滑り、切り取られ小さく折り畳まれたクレープは物理の法則に定められた軌道を通るように彼女の口に運ばれた。額縁に入れてルーブルに飾ってもおかしくないほど美しかった。きっと毎日何万もの人がそれを見るために訪れるだろう。僕はしばらく彼女の指先と口元を交互に見続けた。その時もやはりひどく耳が痒くかったのだけれど、彼女の食べっぷりを見ているうちにそんなことはすっかり忘れてしまった。そして僕はいま彼女のクレープの食べ方を思い出し、あのときの耳の痒さを思い出した。僕のポケットにはもちろんさっき買ったばかりの耳かきが入っている。