「いやな風ね」と彼女は言った。たしかにいやな風だった。乾燥している割には妙に肌にからみついてきたし、第一風向きがまったくはっきりしなかった。風はあらゆる方向から吹いていた。右手の甲に空気が当たるのを感じたかと思うと、急に前髪が吹き上げられたりした。風の強さもばらばらだった。息ができないほど強い風のあとには、やさしく頬をなでるような風が吹いた。まるで見えない人々が僕らを取り囲み、大小さまざまなふいごを使っていたずらしているみたいだった。突然、彼女が「ねぇ、何か聞こえない?」と言った。耳を澄ませてみたが、何も聞こえなかった。「いや、聞こえないよ。何か聞こえるの?」と僕は答えた。それでも彼女は黙ったまま耳を澄ませていた。もう一度耳に意識を集中してみたが、やはり僕には何も聞こえなかった。不思議なことに、風の吹く音すら僕の耳には入ってこなかった。