博士の髭

 博士はたいてい黒い革張りの回転椅子に座っている。僕が呼びかけると一拍おいてくるりと椅子を回し、右手で口髭を2、3度しごいてから、「なんじゃね?」と言う。そのせいで右の髭の方が左よりも少しだけ薄くなっている。実際博士もそのことを気にしているのだけれども、癖だからやめられないのだ。「博士、右の髭が薄くなってますよ」と僕が言うと、わかっておるわいと言いながら彼はまた髭を触る。
 ある日、博士は人差指と中指に包帯をぐるぐる巻きにしてやってきた。愛車のフォルクス・ワーゲンを洗ってるときに、ドアに手を狭んだのだ。どうせまたサボテンのことでも考えていたんだろう。最近博士はサボテンの研究をしているのだ。どうして記号論の専門家がサボテンに夢中になっているのか、僕は知らない。サボテンが発するという信号の研究でもしてるだろうか。
 「大丈夫ですか博士」と声をかけると、彼は「うむ」と答えた。それから続けて、「喜べ、セバスチャン」と言った。セバスチャンとは僕のことだ。僕だけではなく、男の弟子はすべてセバスチャンと呼ぶのだ。たぶん名前を憶えるのが面倒なんだろう。ちなみに女の弟子はチネッテと呼ばれている。「喜べ、セバスチャン。これでもう髭の心配をしなくてすむ。サボテンの研究などせず、最初から包帯を巻けばよかったのじゃ」そう言って博士は笑った。僕には意味がわからない。博士はいつもこうなのだ。たぶん彼の頭の中ではつながっているのだろうけれど、僕らに向けられるのは飛躍した単語の切れっ端ばかりだ。よくよく話を聞いてみると、こういうことだった。
 右の口髭だけ薄くなってきた博士は髭をサボテンの棘みたいにする研究をしていたのだ。そうすれば髭を触るたびにちくりとして、自然に癖を直せるというわけだ。それじゃ顔を洗うときに困るんじゃないかと僕は思ったのだけれど、黙って話を進めた。途中で脇道にそれると、話を聞き出すのに3倍の時間がかかってしまう。一度など食事抜きで6時間ずっと話を聞かされたこともあるくらいだ。右手を怪我した博士は、サボテンの研究などしなくても包帯を巻いた指では髭を触れないことに気づいたらしい。そういうわけで喜んでいるのだ。
 「わしがいつも言っているように、いつだって答はすぐそばに転がっているのじゃ。わかるか、セバスチャン」そういって博士は笑った。笑いながら、博士はいつまでも左手で右の口ひげを触っていた。まったく。