煙草、海亀、蛍、電車、絵葉書、そして煙草

「吸う?」と彼女が言った。
「タバコは吸わないんだ」と僕は答えた。
「今まで全然吸ったことないの?」
「あるよ。7本」
「7本?」
「そう、7本。小学生の頃、父親が消し忘れた灰皿のタバコをこっそり一口だけ吸ってみた。中学2年の時に何人かで同級生の女の子の家に遊びに行って2本吸った。高校の時に、目隠しをしてキャメルとラークを吸い比べて当たるかどうか賭をした。ついでにメンソールのタバコを吸ってみた。大学に入ってチョコレートの香りがするっていうタバコを1本もらって吸ってみたけど、ひどい味だった。これで7本」
彼女は不思議そうな顔をして僕を見た。
「どうしてそんなふうにきっちりと憶えているの?」
「さあ、よくわからないな」と僕は言った。
「こういうのって他の人は憶えていないものなのかな?」
「たぶんね」
彼女はそう言って、タバコを吸いこんだ。
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 サグラダ・ファミリアの誕生の門を支えているのは海亀であります、と男が口髭を指でひねりながら言った。この門の構図を見て下さい、諸君。そう言ってスライドのボタンを押しながら、また口髭を触った。彼女は小さな声で、素敵ねと言う。何が?と訊ねると、海亀よ、と答えた。確かに海亀は素敵だった。四角い台座の上に這いつくばった海亀は、背中から太い丸い柱を生やしている。前足で台座を抱き込むようにして、真剣な表情をしてしっかりと柱を支えている。目には力があり、開かれた口からは雄叫びが聞こえてきそうだ。たぶんガウディの思想をしっかりと理解しているのだ。世界を支えている自負があるのかもしれない。あるいはいつまで経ってもサグラダ・ファミリアが完成しないことを嘆いているのか。ねぇ、あの亀タバコを欲しがってるように見えない?と彼女が言う。どうかな?と僕は答える。確かに海亀の口にタバコを加えさせれば似合いそうな気はしたけれど、それと海亀の喜びとは別のことのように思えた。コホンと咳払いをしたあとで、ガウディは生涯独身でありました、とやはり髭をひねりながら、なぜかさみしそうに男は言った。
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 サワサワと空気が動いた。そんな気がした。そんな気がして僕は目を覚ました。上のほうで何かが揺れている。ああ、水の底にいるんだ、と思う。深く暗いところに寝そべって見上げる水面は、光の波紋に揺れていてとてもきれいだった。再びサワサワと空気が揺れて、僕はここが水中ではないことに気づく。僕が横たわっているのは湖底の泥の上ではなくベッドで、見上げているのは湖面ではなく白い天井だった。天井で揺れているかすかな月の光だけが本物だった。季節は夏の終りで、ちょうど日付けが変ったばかりだった。どこかで虫が鳴いていた。どこだろう?起きあがって見回すと蛍が飛んでいた。蛍?違う、蛍は鳴かない。また、空気が動いた。レースのカーテンが月の光のなかで揺れている。紅い蛍がそこにいた。すーっと紅く光って、どこかへ消えた。僕は、どうしたの?と蛍に向って問いかける。再び紅い点が光って、揺れた。顔の半分にだけ月の光を浴びた彼女は窓の外を向いたまま、眠れないのと言い、そしてもう一度タバコを吸い込んだ。カーテンがまたサワサワと揺れた。
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 電車はガタゴトと揺れた。電車にあわせて僕も揺れた。窓の外の菜の花畑も揺れていた。電車は2両だった。1両目には子供たちが乗っていて、2両目には老人の集団が乗っていた。小学校の遠足と老人ホームの旅行が重なったのかもしれない。僕はどちらに乗るべきかわからなかったので、連結部分に立っていた。時折、1両目から子供がやってきて、僕の前を横切って2両目へと移っていった。2両目から老人がやって来ることはなかった。やがて電車は止まった。そこは小さなさびれた駅で、僕の他には誰も降りる者はいなかった。僕だって特に目的があって降りたわけではない。何となく自分が中途半端な人間であるような気がしてきて、疲れてしまったのだ。ホームに降りたってもまだ体が揺れていた。駅員はおらず、代わりに薄汚れた白い犬が寝そべっていた。僕はホームのベンチに座りしばらくその犬を眺めていたが、犬のほうは僕のことを一度も見なかった。次の電車まで何もすることがなかった。こういう時はタバコを吸うべきだと何となく思ったが、残念なことに僕にはタバコを吸う習慣はなかった。
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 封筒が届いた。表にはきちんとした整った字で小さく僕の名前と住所が書いてある。差出し人の名前はない。中には、何も書かれていない絵葉書が1枚入っていた。表はルネ・マグリットの絵だった。草一本生えてない大地に大きな岩がいくつかそびえている。遠くには海が広がっている。空はくすんだ薄いブルーで、いくつもの雲が浮んでいる。大きな岩のひとつには、やはり岩でできた巨大な魚が乗っている。きょとんとした目でこちらを見つめている魚は、迂闊にも海からとり残されてそのまま石化してしまったようにも見えたし、これから空を飛ぶ練習を始めるところのようでもあった。なぜそんなところに自分がいるのか戸惑っているようにも見えた。あるいは、これから自分が何をすればいいのかよくわからないのかもしれない。じっと見ているうちに、僕は自分がその魚になってしまったような気がした。僕だってどうすればいいかわからないんだ。そんな目で見るなよ。封筒からは、微かにタバコの匂いがした。
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 彼女はよく僕に言ったものだ。「そんなのは、うしろを向いたまま歩いているようなものよ。たぶん10メートルくらいは歩けるでしょう。あるいは、運がよければ100メートルだって進めるかもしれないわ。だけどいつか曲がり角がやってくる。その時あなたはどうするの?」彼女が言うことは100パーセント正しかった。それはもちろん僕にもわかっていた。だけどそのころの僕は、履きつぶした靴がぎっしりと詰まった靴箱のようなものだった。もう新しいものは何も詰め込めなかったし、かと言って古くなってしまったものを捨て去ることもできずにいた。やがて、冬が訪れようとしていた寒い日に彼女は出ていった。コートの裾がひらひらと揺れていた。それは僕にも当然のことに思えた。あとには何も残らなかった。言葉も、写真も、想い出さえも。よく考えてみると、彼女の顔すらうまく思い出すことができなかった。彼女が置いていったのは、灰皿の中の吸い殻だけだった。