図書館の門番

誰もが知っていることだけど、図書館には門番がいる。

 古い小さな図書館の隅っこに彼は座っている。二階の閲覧室へと続く階段の横に古ぼけた木製の椅子を置いて、大抵じっと高い天井を見つめている。あるいは天井のしみの数を数えるのに飽きた時には、正面にあるギリシア彫刻と睨めっこをしている。もちろん門番が睨めっこに勝ったことは一度もない。

 みんな彼が図書館の門番であることを知っている。だけど、門番がなぜ建物の中にじっと座っているのかは、誰も知らない。図書館には門がないからだというのが、たぶん最も人々を納得させうる答だったが、そもそも門がないのにどうして門番が必要なのかということについては誰も答えられなかった。もちろん僕にもわからない。わかっているのは、彼が門番だということだけだ。

 50年以上も前に建てられたという図書館は薄暗く、いつもひんやりとした空気が漂っていた。たぶん高い天井と石張りの床のせいだろう。壁のずっと上の方にある明かり取りの小さな窓はすっかり汚れてしまっていたし、天井からぶら下げられた蛍光灯はあまりに高い位置にあった。

 図書館の壁は厚く、天井はがっしりとした柱で支えられていた。石張りの床は歩くとコツコツと音を立てた。図書館にはまったくふさわしくない床だったが、僕はその灰色の冷たい床が好きだった。

 門番は誰かのコツコツコツという足音を聞くと、ゆっくりと顔を動かし床をじっと見つめる。決して足音の持ち主を捜したりはしない。床を見つめている間は指一本動かさない。それはきっかり五秒間続く。誰の足音か聞き分けようと集中しているようでもあったし、足音が閲覧者の迷惑にならないように祈っているようにも見えた。あるいは単に五秒間だけ息を止める練習をしてるのかもしれなかった。小学生なんかが遊びでよくやるように。

 僕が門番に話しかけたのは、秋も終わろうとしている土曜日の午後だった。図書館の外では枯葉が風に舞ってカサカサと音を立てていた。

 僕が重いドアを開けて中に入ったとき、彼は相変わらず睨めっこを続けていた。睨めっこの相手は二週間ほど前からモダンアートの抽象的なオブジェに代わっていた。最初のころ、こんな前衛的なオブジェが相手では睨めっこにも困るだろうと心配していたのだが、門番は以前とまったく同じように見つめ続けていた。たぶん四角錐や球がいくつも組み合わされたそのオブジェのどこかに、彼にしかわからない目や鼻や口があるんだろう。

 スニーカーを履いていたにも関わらず、3歩ほど歩くと彼には僕の足音が聞こえたようで、いつものようにきっかり5秒間下を向いて静止した。それからゆっくりと顔を上げ、何ごともなかったように睨めっこを再開した。ホールにいるのは門番と僕の二人だけだった。

 彼に話しかける気になったのはなぜだろう。うつむいた門番の姿がいつもと違ったように思えたせいかもしれない。僕には、門番がまるで僕らにはよくわからない種類の悲しみにじっとに耐えようとしているように感じられた。

 傍らに僕が立っても彼はオブジェをじっと見続けていた。僕はそのまましばらく待ってみたが、門番の視線は動かなかった。僕の口からはうまく言葉が出てこなかった。よく考えてみれば、最後に誰かと言葉を交わしたのはもう三日ほど前のことで、相手は新聞の集金人だった。人に話しかけるときに最初に言うべきせりふなんか忘れてしまってた。

 しかたなく僕はコホンと小さく咳払いをしてみた。その音はがらんとした空間の中で僕の予想以上に大きく響いた。咳払いは、僕の体から床へ、床から柱へ、柱から天井へと細波のように伝わり、そして僕の耳に戻ってきた。門番は瞬きもせずにただオブジェを見つめていた。

 20秒ほど考えて、僕は「今日は寒いですね」と言ってみた。まるで中学の英作文のテストにでも出そうなせりふだ。頭の中で英語のスペルを並べてみたけれど、誰も誉めてはくれなかった。さらに10秒経って「素敵なオブジェですね」とつけ加えたが、門番はやはり黙って一点を見続けていた。

 それから僕は頭の中でゆっくりと30まで数えてみたけれど、返事はなかった。門番の手はずっと膝の上で軽く握りしめられていた。一度だけ右の眉毛が微かに動いたような気がしたけれど、僕の見間違いかもしれない。あまりにもしんとしすぎていて、気づかないうちに月の裏側に連れてこられたのかと錯覚してしまいそうだった。

 やがてドアの開く音がして誰かが入ってきた。ホールの空気が微かに動き、僕はようやく胸を誰かに押さえつけられているみたいな気分から逃れることができた。誰かのコツコツという足音が響いてきて、門番は下を向き、僕は階段を上った。

 結局、僕は門番と話をすることはできなかった。たぶん最初の言葉を間違ったのだ。だけどどう言えば良かったのか、僕には今でもよくわからない。

 彼は今でも図書館の片隅で座り続けている。誰もが図書館には門番がいることを知っている。