物語

天気読み

天気読みはまず空を見上げて雲の色と形を探り、それからぺろりと舌を出して風の匂いをかいだ。しゃがみ込んで手のひらをぺたりと地面につけ、土の温度と湿度を感じた。はっぱの裏側も覗いてみたし、井戸に小さな石を投げ込んでその音に耳を澄ませることもや…

冬に歩く

いつの間にか僕の足下では風に舞った枯葉がカサカサと音を立てていた。いつもの年と同じように冬は僕らが気づかないうちにこっそりとやってきていた。冬はときおり強い風を吹かせ、わずかばかり残っていた木の葉を散らせた。あるいは乾いた雪をほんのちょっ…

あのころ彼はよく出張をした。長くはない。二泊三日とか三泊四日とかの短い旅だ。私は決まって夕食の買い物先から電話をかけた。帰ってから食べたいものある?彼はカレーライスとか焼きそばとかコーラとかあるいはチョコレートだとか、子供のようなものばか…

ジャスミンの香りのする夜の出来事

そのしみはまるでドーナツを食べ過ぎてすっかり太ってしまったミッキーマウスみたいな形をしていたが、もちろんそんな楽しいものではなかった。部屋には動くものは何もなかった。まるですべてが無声映画の中の出来事のように感じられた。どこにも字幕が出て…

アイスクリーム売り

大学の掲示板でアイスクリーム売りのアルバイトを見つけたのは昨日のことだ。とっくに夏休みが始まっていて、割の良さそうなバイトにはどれも決定済みの赤いスタンプが押してあった。僕は掲示板を右上から順番に丁寧に眺めていき、左下まで来ると、そのまま…

空を飛ぶもの

技師が手を離すと、ラジオゾンデはかなりのスピードで上昇していった。誰もが風船っていうのはふわふわとゆっくり上がるものだと思っていたから、すこし戸惑っているようだった。子供が「わぁ」と発した言葉のあとにみんな我に返ったように手を叩いたが、そ…

ダスト・シュート

いつからか知らないけれど、そこにゴミを捨てるのは禁止されていた。たぶん僕が小学校に入る少し前からじゃないかと思う。入学してからシューターの使用を禁止する放送や張り紙を見たことはないし(僕はそのようなあまり役に立ちそうにない記憶についてはひ…

哲学者の道

町で噂の哲学者が丘から続く長い一本道を降りていく。道には白い石が敷きつめられているけれど、それはところどころごつごつとしていて哲学者のサンダルの爪先にひっかかった。途中ですれ違った白い山羊を引いた老婆は哲学者の顔をじろじろと見つめ、それか…

鳥かご

天井からは幾十もの鳥かごが吊り下げられていた。大人が立ったまま入れそうなものもあり、キャラメルのおまけにでもついてきそうなものもあった。底一面に薔薇のレリーフが彫られた巨大な真鍮製の鳥かごがあり、竹ひごで編んだシンプルな直方体のかごがあり…

空間

「何でも知ってるのね」 「毎晩寝る前にブリタニカの百科事典を読んでるんだ」 「そこに私のことも載ってるの?」 「Jの項まで読み終わったけど、まだ出てこない」 「あなたのことは書いてあったの?」 「僕のことなら、読まなくたってわかってる」 「そうか…

晴れた日の豆ごはん

もう少しで豆ごはんが炊きあがる、というところでチャイムが鳴った。出てみると黒いスーツを着た男が立っている。「ご主人さまでございますか?」男はにこやかに言った。ご主人さま?まるでランプの魔人みたいなせりふだ。僕が答えるより早く、男はアタッシ…

雨の午後に世界について語る

ひどいことに部屋には紅茶もコーヒーも切らしていて、僕は仕方なくレモンを厚く切ってカップに入れ湯を注いだ。彼女はしばらく黙ってカップを見つめていた。それから両手でカップを抱えこみ、そのまま窓の外を眺めた。窓の外ではまだ雨が降り続いていた。暗…

太陽を追いかけた男

「太陽を追いかけた男の話知ってる?」と彼女は訊ねた。僕が答える前に彼女はゆっくりと話しはじめた。「むかし、夕日を追いかけようとした男がいたの。夜の間太陽がどういう行動をしているのか確かめようと思ってね。男は夕日を追いかけて西へ馬を走らせた…

リンゴのかたちをした幸せ

リンゴのかたちをした幸せについては多くのことが語られている。それを最初に手にしたのは、山高帽をかぶり、鼻眼鏡をかけ、こうもり傘を持った公務員だったと言われている。彼が山羊髭を生やしていたことから、当時の人々の間では同じように山羊髭を生やす…

悲しき雨音

彼女の左手には三つの指輪がつけられていた。人差し指と中指と小指だ。右手にはひとつもない。僕は一度指輪の意味を訊ねたことがある。意味なんてないわよというのが彼女の答えだった。あなた、コーンフレークに特別な意味を見出せる?と彼女は訊ねた。真剣…

オレンジ色の栞

彼女は、あなたは本を読むときにいつもページを折り曲げているでしょうと言った。それはよくないことなのよ。栞の役割を奪ってしまっているから。そう言った。そのあいだ僕は何も喋らず、じっと彼女の指先を見ていた。きれいに短く丸くカットされた爪は浜辺…

南からの手紙

あさって砂浜にツリーを立てに行きます。鉢に植えられた樅の木はちょっとびっくりするくらい大きくて、夜が明ける前に海まで運べるか少し心配です。夏のクリスマスなんて、とあなたは言うかもしれません。最初の年はわたしもそう思いました。クリスマスとい…

帰館

狐狩りから帰ってくると必ず暖かいミルクを飲むのが彼の習慣だった。緯度の高いこの土地では秋の夕暮れは早く、陽光は3時にはその輝きを失い始める。午後の光が透明度を失うにつれオレンジ色が勢いを増し、やがてそのオレンジも紫がかった闇に取って代わられ…

オリーブの種は転がり続ける

オリーブの種が転がり、部屋に夕暮れがやってきた。僕は相変わらず床に寝転がったままだ。フローリングの床は既に冷たく、ついさっきまで食べ散らかされたシナモンドーナツのように部屋のところどころに転がっていた11月の日曜日の午後の名残りは、もうどこ…

人生、または夜中の冷蔵庫について

「ときどき人生について考えるんだ」という彼の言葉は僕に夜中の冷蔵庫を連想させた。夜更けの台所はいつだってしんとしている。どこかの部屋で水を流す音がパイプを伝わってやってくる。素足に触れる床は冷たい。明かりはついていないけれど、真っ暗という…

土曜の午後の紅茶

「僕は土曜日の午後の紅茶が一番好きだな。透き通ってるから」 「透き通ってる?なにが?」 「色も味も香りも。空気も音も、なにもかもさ。そうは思わない?」 「少しだけわかるような気はする」 「少しだけ?」 「そう、少しだけ。だって私はあなたじゃない…

彼の世界

手紙がポトンとポストに投げ込まれたとき、彼は庭で芝生に水を撒いていた。電話のベルがリンリンと鳴ったときには、ヘッドホンを耳に当てて古いLPレコードを聴いていた。ドアノッカーがカンカンと音を立てたときには、シャワーを浴びていた。そういうわけ…

戸惑う雌鶏

緩やかな上り坂になっている小道の曲がり角で、僕は「ニャーゴォ、ミャーゴォ」と叫びながらきょろきょろとあたりを見まわしている女の子に出逢った。僕を見つけると、彼女は「雌鶏見ませんでした?」と言った。「雌鶏?にわとり?」と訊き返すと、彼女はこ…

020505

降りつづいた雨はようやく止んだ。僕はこの何日間か雨の音を聞きながらいくつもの段ボール箱を開け、埃を払い、本を並べ、スピーカーをつなぎ、机を動かしては位置を確かめ、そしてスパゲティを茹で続けてた。太陽の光もきれいな風も久しぶりだった。 部屋の…

鳥雲

鳥雲というのは鳥のかたちをした雲のことだと長い間思い込んでいた。だけどそうではなく、実際は雲の姿をした鳥のことをいうのだ。僕がそのことに気づいたのは昨日の午後のことだった。たまたま窓の外を覗いたときに、鳥雲は空から嘴を伸ばして海の水を飲ん…

糸電話的カオス

木に登って3日目に紙コップと釣り糸で糸電話を作って下に垂らしてみたけれど、それはもちろん誰ともつながってなくて、けっきょく僕は一言も発することなくそれを頭の上の枝に掛けて眠った。夢の中には女の子が出てきて、寝坊した穴グマの行く先を僕に訊ね…

寝坊した穴グマ

寝坊した穴グマが僕のところにやってきて、ちりとりを貸して欲しいと言った。ちりとりなら貸してもいいけど寝坊するのはよくないことだと僕が言うと、彼はまったく面目ないと頭を掻いた。その姿はものすごく反省しているように見えたので、僕は話題を変えて…

観念の王国に住むということについて

窓から差し込む朝の光が細かな塵を浮かびあがらせるように、彼女の言葉は僕の心の小さな不安を目に見えるものにした。今から思えば彼女は観念の王国に住んでいたのだ。僕らが住むこの世界の背中合わせとしての観念の王国。そこはこちら側の世界と何ひとつ変…

火曜の電話と水曜の動物園

彼女が電話をかけてくるのは、決まって火曜日の午後だった。そして必ずこう言う。「明日動物園に行きましょう」 「動物園に行くのは水曜日が一番いいのよ」というのが彼女の意見だった。休園日の次の日で動物たちがリラックスしているのだそうだ。 そういう…

酔いどれゴンザルヴェスのこと

バーのカウンターに座った僕の向こう側で、酔いどれゴンザルヴェスはトランペットを吹いている。質屋で買ったトランペットの代金の半分はアルバイトで稼いだ金で払った。残りを2回に分けて払う約束だったが、それは7本のジムビームと4本のフォアローゼス…