物語

誰かが僕のドアをノックした

森/アイルランド 誰かがまた僕のドアをノックした。トントントン。とても優しい叩き方だったけれども、僕はドアを開けなかった。僕のドアはいつだってかたく閉ざされているのだ。真冬のシベリアの木こり小屋のように凍りついているから、開けたくても開く…

卒業式

かもめ/フィンランド 読んでいた本からふと目を上げると、小さな花束を持った高校生が立っていた。電車の揺れにあわせて、かすみ草が小さく震えていた。僕の背後から差し込んでいる午後の光の中で、それはとてもきれいに見えた。 もう卒業式の時期なんだ。…

僕の土曜日夕方5時

ストーンサークル/アイルランド 例えば土曜日の夕方にFMを流しっぱなしにした部屋で、ひとりでベッドに寝ころび、たまにサイドテーブルに置いたアイスティなんかを飲みながら、読んでも読んでも終わりそうにないほど長い小説を読んだりするのがたまらなく好…

TVニュース

ダムに沈むことになっている村には、今ではもう6つの家しかありません。テレビがそんなことを言う。村には樹齢130年の楠の木があります。僕は紅茶を啜る。トーストを囓る。目玉焼きをつつく。少し塩気が足りないので、小瓶をとってパラパラと振りかける。楠…

耳のなかの骨

夕暮れ/パリ レントゲン技師は、あなたの右耳の奥に少しばかり奇妙な形をした骨があると言うのだった。あなたひまわりの種をたくさん食べませんでしたか、と彼は言った。僕はそんなものを口にした憶えはないので、食べないと答えた。彼は、おかしいなと首を…

サーカス、サーカス、サーカス

観覧車/パリ テントの中は人でいっぱいだった。なんせサーカスがやってきたのだ。犬とロバとネズミのサーカスだ。最初に髭をはやした団長が出てきて挨拶をした。銀色のタキシードを着ている。袖口や裾がすり切れていたけれど、立派なタキシードだった。なん…

貸し切り

どういうタイミングなのか、真夜中の都市高速には一台も車が走っておらず、街灯とビルの明かりだけが現実世界がそこにあることを表しているように思えた。 雨はもう上がっていて濡れたアスファルトがきらきら光っていた。 「世界が貸し切りみたいね」と彼女…

行く先

レストランは海のすぐ側にあって、ガラス張りの二階席からは沈みゆく夕陽と行き交う船がよく見えた。 ジーパンなんか履いて来なきゃよかったな、と彼女は言った。 よく似合ってるけど、と僕は言った。 実際その細いジーンズは彼女によく似合っていた。 少な…

記憶の構成

フィンランド | 通り - ときどき彼女の顔が思い出せなくなった。 輪郭や瞳や口元やパーツはきれいに思い浮かべることができるのに、顔全体を思い出そうとするとぼやけたようになってうまく像が結べない。 そんなときは音楽を聴いた。 昔聴いていた曲をかけ…

猫の時間

もう夜中の1時半だった。 店を出た僕たちはいい加減酔っていた。 空は黒く青く輝いていて、その分空気は冷たかった。 すぐにタクシーに乗るつもりだったのが歩き出したのはなぜだろう。 僕たちはぽつりぽつりとしゃべりながらゆっくりと歩いた。 この先に神…

観覧車

空の真ん中はまだ青く輝いていたけれど、ビルの群れに遮られた地平線はすでに茜色に染まり始めていた。 もう少しで夕暮れが訪れてしまう。 日が沈む瞬間に観覧車に乗っていたいというのが幼い頃の僕の夢だった。 昼と夜の境に観覧車はきっと別の乗り物に変わ…

僕の車

僕のフランス製の小さな車は徐々に死につつある。 ブレーキペダルを踏むたびにキーキーという音が鳴る。 右のテールランプがときどき点灯していないらしい。 エアコンのどこかにごく小さな穴が空いてガスが漏れているせいで、冷気はほとんどでない。 そして…

記憶

あの冬はひどく寒かったことをおぼえている。 車の中もひどく寒かった。 空港で、僕は壁際の出っ張りに腰掛け文庫本を開いていたけれど、目は活字を追うばかりで実際にはほとんど何も頭に入ってこなかった。 彼女はグレーのフード付きのコートを着て現れた。…

二十四の春に僕は羅針盤を失った。それは唯一無二のものというわけではなかったし、なくなれば僕の人生が変わってしまうという性格のものでもなかった。にも関わらず、それを失うことによって僕は少なからず混乱し、同じ場所をぐるぐると歩き回っているよう…

雨宿りと猫

ときどき思い出したように雨が降った。 僕たちは軒先で雨宿りをした。 猫が何匹も狭い路地を横切った。 猫たちはちらりと僕たちを眺め、無関心なふりをしてゆっくりと歩いて行った。 僕たちはよそ者だった。

プールと野ウサギ

「あなたって春の雨降りのプールみたいよ」と彼女は言った。 首に巻いたマフラーを引っぱりながら空を見上げると、もうすぐ雪が落ちてきそうだった。 「プールって?」と僕は訊ねた。 「つまり」と彼女は言った。 「つまり、樫の木の根元の穴の中で眠ってい…

口癖

きれいだようというのが口癖なのである。ヤマモトさんのことだ。道を歩きながらしょっちゅうきれいだようと呟いている。なにがそんなにきれいなのかと覗き込んだら、蟻が列をつくっている。蟻の背中が日差しのなかで光っているのがきれいなんだそうだ。こな…

砂漠の電話

砂漠には電話がある。それは砂漠を二つに分断する北に延びる道路に置かれている。まわりには何もない。ただ黄ばんだプラスチックの覆いがついた黒い電話がひとつあるだけだ。どうしてそんなところに電話が置かれているのか、誰も知らない。そもそもこの道を…

はじまり

「短すぎるフライトっていうのも疲れるものなのよ」と彼女は言った。僕はあいまいに頷いた。 航空会社の機内誌に地方の土産物を紹介する半ページの短い記事を書くために、僕は月に一度会社から紹介されたスチュワーデスに話を聞いた。事前に聞いておいた名物…

オリーブラジオ

オリーブラジオは町外れの三階建ての古い雑居ビルの中にひっそりと存在している。最上階の角部屋の南と東の窓からは明るく陽が差し込み、緩やかに曲線を描く高い天井は心地よい空間をつくっている。色あせた壁紙の一部は端が浮いて剥がれそうになっている。…

水映

製銅所は小川のすぐ脇にあった。小屋の外側には小さな水車が取りつけられていて一日中ゴトゴトと音をたてていた。むかしは動力に使われていたであろうその水車は今ではどこにもつながっておらず、水の流れにしたがってただひとりで回り続けている。 製銅所か…

残されたもの

その友人が僕に残したのは一坪ほどの土地だった。なぜそんなものを僕にくれたのかわからないし、そもそも彼が土地なんかを所有していた理由もわからない。彼の代理人だという男がやってきて、僕は言われるままに小さな字でよくわからないことが書いてある書…

物語が始まる前の物語

修道院の屋根裏に住み着いた鳩が三つの卵を産んだちょうどその時、町外れを流れる川の畔で彼女は白詰草で編んだ首飾りを完成させたところだった。彼はそこから2000キロばかり離れた小さな日当たりの悪いホテルの一室でベッドに入って眠りにつこうとしていた…

誰もが自分の人生を語りたがった

誰もが自分の人生を語りたがった。ある者はいかに自分が不幸であったのかを涙を流しながら説明し、ある者は一昼夜にわたってただひたすら自慢を続けた。多かれ少なかれ、誰もが語るべきことを抱えていた。途中で声が出なくなり、それでもなお筆談に頼って語…

僕らのジューシーフルーツガム・フィーバー

「ポケットにはいつもジューシーフルーツガム」というのが、その冬の僕らの合い言葉だった。誰もが暇さえあれば竸い合うようにしてジューシーフルーツガムを噛んだ。歩いている時も、プールで泳いでいる時も、授業中も、ガムなしではいられなかった。ある者…

バンブー

大学の正門の前には、夜になるとバーに代わるバンブーという喫茶店があって、僕がそこで最後にコーヒーを飲んだのは卒業式の日だった。卒業式には出なかった。理由なんて特にない。もし朝起きたときに冷蔵庫のオレンジジュースが切れていなかったら、出席し…

忘却

彼のフランス製の小さな青い車はやがて壊れてしまった。プスンと小さな音を立ててそれきり止まってしまった。彼はその車をとても愛していたからひどく悲しかったがそれはどうしようもないことだった。 しばらくして彼は車を分解しはじめた。車のまわりをぐる…

天気読み

天気読みはまず空を見上げて雲の色と形を探り、それからぺろりと舌を出して風の匂いをかいだ。しゃがみ込んで手のひらをぺたりと地面につけ、土の温度と湿度を感じた。はっぱの裏側も覗いてみたし、井戸に小さな石を投げ込んでその音に耳を澄ませることもや…

冬に歩く

いつの間にか僕の足下では風に舞った枯葉がカサカサと音を立てていた。いつもの年と同じように冬は僕らが気づかないうちにこっそりとやってきていた。冬はときおり強い風を吹かせ、わずかばかり残っていた木の葉を散らせた。あるいは乾いた雪をほんのちょっ…

あのころ彼はよく出張をした。長くはない。二泊三日とか三泊四日とかの短い旅だ。私は決まって夕食の買い物先から電話をかけた。帰ってから食べたいものある?彼はカレーライスとか焼きそばとかコーラとかあるいはチョコレートだとか、子供のようなものばか…

ジャスミンの香りのする夜の出来事

そのしみはまるでドーナツを食べ過ぎてすっかり太ってしまったミッキーマウスみたいな形をしていたが、もちろんそんな楽しいものではなかった。部屋には動くものは何もなかった。まるですべてが無声映画の中の出来事のように感じられた。どこにも字幕が出て…

アイスクリーム売り

大学の掲示板でアイスクリーム売りのアルバイトを見つけたのは昨日のことだ。とっくに夏休みが始まっていて、割の良さそうなバイトにはどれも決定済みの赤いスタンプが押してあった。僕は掲示板を右上から順番に丁寧に眺めていき、左下まで来ると、そのまま…

空を飛ぶもの

技師が手を離すと、ラジオゾンデはかなりのスピードで上昇していった。誰もが風船っていうのはふわふわとゆっくり上がるものだと思っていたから、すこし戸惑っているようだった。子供が「わぁ」と発した言葉のあとにみんな我に返ったように手を叩いたが、そ…

ダスト・シュート

いつからか知らないけれど、そこにゴミを捨てるのは禁止されていた。たぶん僕が小学校に入る少し前からじゃないかと思う。入学してからシューターの使用を禁止する放送や張り紙を見たことはないし(僕はそのようなあまり役に立ちそうにない記憶についてはひ…

哲学者の道

町で噂の哲学者が丘から続く長い一本道を降りていく。道には白い石が敷きつめられているけれど、それはところどころごつごつとしていて哲学者のサンダルの爪先にひっかかった。途中ですれ違った白い山羊を引いた老婆は哲学者の顔をじろじろと見つめ、それか…

鳥かご

天井からは幾十もの鳥かごが吊り下げられていた。大人が立ったまま入れそうなものもあり、キャラメルのおまけにでもついてきそうなものもあった。底一面に薔薇のレリーフが彫られた巨大な真鍮製の鳥かごがあり、竹ひごで編んだシンプルな直方体のかごがあり…

空間

「何でも知ってるのね」 「毎晩寝る前にブリタニカの百科事典を読んでるんだ」 「そこに私のことも載ってるの?」 「Jの項まで読み終わったけど、まだ出てこない」 「あなたのことは書いてあったの?」 「僕のことなら、読まなくたってわかってる」 「そうか…

晴れた日の豆ごはん

もう少しで豆ごはんが炊きあがる、というところでチャイムが鳴った。出てみると黒いスーツを着た男が立っている。「ご主人さまでございますか?」男はにこやかに言った。ご主人さま?まるでランプの魔人みたいなせりふだ。僕が答えるより早く、男はアタッシ…

雨の午後に世界について語る

ひどいことに部屋には紅茶もコーヒーも切らしていて、僕は仕方なくレモンを厚く切ってカップに入れ湯を注いだ。彼女はしばらく黙ってカップを見つめていた。それから両手でカップを抱えこみ、そのまま窓の外を眺めた。窓の外ではまだ雨が降り続いていた。暗…

太陽を追いかけた男

「太陽を追いかけた男の話知ってる?」と彼女は訊ねた。僕が答える前に彼女はゆっくりと話しはじめた。「むかし、夕日を追いかけようとした男がいたの。夜の間太陽がどういう行動をしているのか確かめようと思ってね。男は夕日を追いかけて西へ馬を走らせた…

リンゴのかたちをした幸せ

リンゴのかたちをした幸せについては多くのことが語られている。それを最初に手にしたのは、山高帽をかぶり、鼻眼鏡をかけ、こうもり傘を持った公務員だったと言われている。彼が山羊髭を生やしていたことから、当時の人々の間では同じように山羊髭を生やす…

悲しき雨音

彼女の左手には三つの指輪がつけられていた。人差し指と中指と小指だ。右手にはひとつもない。僕は一度指輪の意味を訊ねたことがある。意味なんてないわよというのが彼女の答えだった。あなた、コーンフレークに特別な意味を見出せる?と彼女は訊ねた。真剣…

オレンジ色の栞

彼女は、あなたは本を読むときにいつもページを折り曲げているでしょうと言った。それはよくないことなのよ。栞の役割を奪ってしまっているから。そう言った。そのあいだ僕は何も喋らず、じっと彼女の指先を見ていた。きれいに短く丸くカットされた爪は浜辺…

南からの手紙

あさって砂浜にツリーを立てに行きます。鉢に植えられた樅の木はちょっとびっくりするくらい大きくて、夜が明ける前に海まで運べるか少し心配です。夏のクリスマスなんて、とあなたは言うかもしれません。最初の年はわたしもそう思いました。クリスマスとい…

帰館

狐狩りから帰ってくると必ず暖かいミルクを飲むのが彼の習慣だった。緯度の高いこの土地では秋の夕暮れは早く、陽光は3時にはその輝きを失い始める。午後の光が透明度を失うにつれオレンジ色が勢いを増し、やがてそのオレンジも紫がかった闇に取って代わられ…

オリーブの種は転がり続ける

オリーブの種が転がり、部屋に夕暮れがやってきた。僕は相変わらず床に寝転がったままだ。フローリングの床は既に冷たく、ついさっきまで食べ散らかされたシナモンドーナツのように部屋のところどころに転がっていた11月の日曜日の午後の名残りは、もうどこ…

人生、または夜中の冷蔵庫について

「ときどき人生について考えるんだ」という彼の言葉は僕に夜中の冷蔵庫を連想させた。夜更けの台所はいつだってしんとしている。どこかの部屋で水を流す音がパイプを伝わってやってくる。素足に触れる床は冷たい。明かりはついていないけれど、真っ暗という…

土曜の午後の紅茶

「僕は土曜日の午後の紅茶が一番好きだな。透き通ってるから」 「透き通ってる?なにが?」 「色も味も香りも。空気も音も、なにもかもさ。そうは思わない?」 「少しだけわかるような気はする」 「少しだけ?」 「そう、少しだけ。だって私はあなたじゃない…

彼の世界

手紙がポトンとポストに投げ込まれたとき、彼は庭で芝生に水を撒いていた。電話のベルがリンリンと鳴ったときには、ヘッドホンを耳に当てて古いLPレコードを聴いていた。ドアノッカーがカンカンと音を立てたときには、シャワーを浴びていた。そういうわけ…

戸惑う雌鶏

緩やかな上り坂になっている小道の曲がり角で、僕は「ニャーゴォ、ミャーゴォ」と叫びながらきょろきょろとあたりを見まわしている女の子に出逢った。僕を見つけると、彼女は「雌鶏見ませんでした?」と言った。「雌鶏?にわとり?」と訊き返すと、彼女はこ…